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神様の家族、ハレルヤ!

2018年08月18日
今週半ばにご葬儀があり、さすがに少し疲れが出ました。
ところが、思いがけない嬉しいことがあって、
神様ってすごいなあ、と感謝しているところです。

そう、クリスチャンには「偶然」はありません。
事の大小を問わず、全ては神様のご計画と信じます。

保育園の午後のミーティング、武牧師の受洗準備の学び会も終わり、
あとは週末の、保育園からの報告を聞いて一緒にお祈りする時を待ちつつ、
印刷物の準備などしている時に、来訪者がありました。ピンポーン!

平日は圧倒的に保育園へのご用の方が多いので、
あ、誰か来ましたね~、くらいの気持ちで顔を上げたら!!!
前任教会の青年がニコニコと立っているではありませんか。
結婚を前に、結婚カウンセリングまでは終わらせて(楽しかった)
結婚式は5月の予定でしたから、後任の牧師にお願いして、
じゃあね、またね~と、わたしたちは小松川教会へ来たのでした。

その後、年賀状のやり取りはあったものの、
彼は前途洋々、某有名企業のエンジニアで、今は双子のパパとなれば、
公私ともに充実た生活、忙しいであろうことは目に見えています。
まさかここまで会いに来てくれるとは思わなかったのです!

葛飾区にあるご実家に帰省して、葛西臨海公園に遊びに行き、
帰りに寄ってくださったのでした。嬉しかったなあ。
お子さんは後部座席でぐっすり。
これから栃木県まで運転して帰る、ご自分にも疲れがあったでしょうに。
子連れで動くのは大仕事。付き合ってくださった奥様にも感謝、感謝。

「教会」という組織に、時に疲れを覚えたり、
やはり人間の集まりですから、言葉や感情のやり取りに
心が波立ち、困り果てることもあります。
でも、それは家族だから、心が近いから仕方ない。
「関係ない」人だったら何でもないことでも、
関係が深いほど、近いほど、心が揺れ動くものです。

その分、こんなふうに、思いがけない出会いと喜びがある。
特に、7月末からお別れが続いていただけに、
神様から「別れと出会いは同じ数あるはずだよ」と
教えていただいたような気持ちになりました。

澤田直子



牧師のつぶやき

キリスト教式のご葬儀

2018年08月09日
暑さのせいでもないと思いますが、ご葬儀が続いています。

7月の終りに1件、今週末に1件。
どちらもご高齢の方でしたから、ある程度の覚悟はあったものの、
人ひとり天に送るのは、やはり大仕事であり、寂しさがつのります。

教会でのご葬儀の場合、
参列される方の大部分が「初めて教会に来た」ということもあります。
葬儀式で歌われる讃美歌や聖歌を、ほとんどの人が知らないことも。
特に最近好まれている「家族葬」が行われると、
ご遺族がクリスチャンではない場合、讃美歌を歌うのは牧師だけ、
ということもあり得ます。

それでも、参列してくださった方の大部分が、
「キリスト教の葬儀はいいですね」と言ってくださいます。
牧師の説教や遺族や友人の「感話」では、召された方の思い出が語られ、
最後は参列者皆で、棺を花で飾り、ご本人を主役に進められる式だからでしょうか。

キリスト教では「死」をケガレとはとらえませんから、
お清めの塩や、お酒の振る舞いはありません。
むやみにしめやかさを演出したり、悲しみを盛り上げたりせず、
悲しみの中にもどこか明るさがあり、わたしの感覚では
「葬儀」というよりも「お見送り」に近い気がします。

生きるものすべてに訪れる「死」もまた神様の御手の内にあり、
信仰者にとっての「死」は次に神様のもとで会うまでの、一時の別れです。

「四十九日のような法要はどうするのですか」と聞かれることがあります。
キリスト教では、「死」を「召天」と言い表すように、
住まいが地上から天に移ったと考えますし、
ご本人は神様の御許で何の心配も不自由もないはずです。
残された者が、召天者を心配して追善法要的なことをする必要はありません。

でも何もしないのも寂しいので、「記念会」として、節目の時に(一か月とか一年とか)
集まって、思い出を分かち合いながら食事会やお茶会をすることもあります。

そういう機会がなくても、教会の暦には「聖徒の日」があり、
年に一度、その教会に集っておられた方々を思い出し、
今も共に歩む思いを持って礼拝を献げる日となっています。
つまり、教会が存続する限り、祈りが捧げられるのです。

墓前礼拝も「聖徒の日」と「イースター礼拝」の日に奉げられるので、
たとえ後に続く子孫がいないという方でも、無縁ナントカにはなりません。
教会は、ひとつの大きな家族なのです。

キリスト教と聞くと、「外国の」とか「小難しい」とか
拒否反応を示す方に、こんなことも知ってほしいなあ。

澤田直子

牧師のつぶやき

夫婦で同じ仕事をする話

2018年07月24日
・・・暑いですねえ。
もう、どこで誰と挨拶しても、「暑いですね」が枕詞になってる。
今朝の新聞では、「災害級の暑さと認識」という大見出し。

日曜日の夜から、武牧師は三宅島へ行っています。
帰りは火曜日の夜。たぶん10時過ぎるでしょう。
三宅島には伝道所があって、月に一度夕礼拝を行っていますので、
東京教区東支区の牧師が数名、交替で応援に行っています。
小松川教会は2名の牧師がいますので、武師がそのメンバーに入っているのです。

教会に2名以上の牧師がいることを「複数牧会」と言います。
大きな教会では、3人4人と牧師がいることもありますが、
ほとんどは夫婦どちらも牧師、というケースが多い。うちもそう。

365日24時間(はオーバーだけど)一緒です。仕事も家庭も一緒。
・・・と言うと、時々「わあ、いつもご一緒でいいですねえ、うらやましい」
なんて言われますけど、どうでしょう?いいでしょうか?
ホントにうらやましいのかな?
けっこう、大変ですよ、これ。

教会って、というか宗教界は男性社会でして、
今でも女性教職は説教をしない、なんていう教派教会もありますが、
わたしたちは最初から、説教はイーブンです。
講座など教育系は主に直子が、教区や教師会など外系は武が、
これは相談したわけではありませんが、自然にそうなりました。

で、何が大変なのかといいますと。
大変な時期がピタリと重なるわけです。(そりゃそうだ)
どっちかをどっちかがフォローする、ということがない。
あなたの手伝いまで手が回りません、自分のことで精いっぱい、となる。

ですから、一緒に、同じ仕事をしていても、
案外、協力関係にはないのです。後方支援とか、補給支援とか、しない。
もしかしたら、家事に関しての方が、話し合い助け合っているかもね。

少し前に、武牧師の洗濯物の干し方にケチをつけました。
そうしたら武君、おへそを曲げて「もう洗濯干しやんない!」と言いました。
それで直子ちゃんは、「それなら、もう武君の原稿の推敲やんない!」と言いました。
武君は「ごめんなさい、明日も洗濯物干させてください。」と謝りました。

・・・ま、こんな程度ですよ、牧師ったって。
いや、ちょっと待てよ、こんな程度はうちだけで、
よその夫婦教職はもっと助け合って、補い合っているかもしれない。
澤田家限定の話としてお読みくだされば幸いです。ふふふ。

澤田直子



牧師のつぶやき

「理想の子ども」を捨てる話

2018年07月10日
牧師になる、と決めた時から、
一貫して、わたしが自分のテーマにしてきたことは、
子どもを育てているお母さんがたへの伝道です。

牧師になるための学びと並行して、
アメリカ発祥の「親業」のひとつで、アドラー心理学から考え出された
アクティブ・ペアレンティングを学び、リーダー資格も取りました。
15年前は「アドラー心理学」と言っても、
あまりピンと来ない方も多かったのですが、
今となってはもう、知らない人の方が少ないかもしれませんね。

親であれば、みんな理想の子どもを持っています。
朝は起こされなくても機嫌よく起きてきて、
さっさと着替えて、テレビなんか見ないで朝ご飯をしっかり食べ、
保育園や幼稚園に間に合うように支度ができる。
使ったおもちゃは片づけるし、宿題はすぐにやるし、
いつも元気いっぱいで、笑顔で、やさしくて我慢強い。

このあたりまで話すと、だいたい皆さん苦笑されます。
どんなに多くのことを子どもに求めているかが明らかになりますからね。
自分にもできないようなことを子どもに求めるのは、
そこに本物じゃない「理想の子ども」を見ているからです。

理想の子どもを見ている時は、
本物の子どもの姿が見えません。
大好きなお母さんお父さんの望む通りの姿には到底なれそうもない、
がっかりしてくじけた子どもの心が見えません。

「理想の子ども」はどこにもいません。
それは作りだされた幻想で、何も価値を持たないものです。
それなのに、「理想の子ども」と現実の子どもを比べて
足りないところをあげつらうのは、子どもには酷なことです。

福音書を読んでいくと、最後は十字架の死と復活で終わります。
イエス様を「十字架につけろ」と叫んだ群衆の姿は、
まさに自分たちの身勝手な「理想」と違うといって、
本体のほうを消し去ろうとする、愚かで貧しい姿です。

本物の、今の姿を見ましょう。
そこに全てのヒントはあるのです。

澤田直子
牧師のつぶやき

牧師の子どもは大変だという話

2018年06月28日
まだ長男が学生だった時の事。
彼は部屋はいらないといって、勉強は台所のテーブルでしていました。
しかし台所のテーブルは、わたしにとっても勉強机。
だいたいが、牧師の仕事の半分くらいは調べものですもん。

彼が試験の最中なんかは、もう大変で、
「お母さんがテーブルの4分の3取ってるじゃないか!」
「しょうがないでしょ、使う本が大きいんだから」
「真ん中からこっちには本広げんなよ」
まるで小学生のけんかみたいですよね。
今思えば、微笑ましいですけれども、その時はけっこう真剣。
テーブルの陣取り合戦をやっていました。

受験の時期も、
「ごめん、お母さんは自分の勉強で手一杯です」と
一切気遣いせず、夜食も作らず。

よく、牧師の家庭の子は「つまずく」と言われます。
「つまずく」とはキリスト教用語で、信仰から離れること。
牧師として講壇で語っていることは立派なんだけど、
家庭に帰ると、やっていることが全然違うじゃないか、
ということなんですね。

他人のためには熱心に祈るのに、
自分の子どもが病気になると、ついイライラしてしまったり。
たぶん「ウチの親は、優先順位がおかしいだろ!」
と思っていたでしょうね。

幸い、うちのお子がたは、大きくつまずくことはありませんでしたが、
教会の内外で、そういうケースを幾つも見て来ました。
教会では「牧師の子どもなのに」と言われ、
学校では「おまえんち、教会なの?肉食えんの?」などとからかわれ、
親は、どこか世間から離れていて、きれいごとばかり言っている。
長男は「おれは苦労人だ」と言います。同感です。ごめんね。(口だけ)

もう子育ても終わって、まだ家族は一緒に暮らしていますが、
一緒に何かするとか、どこかへ行くことはあまりなくなりました。

子育ての難しさは、やり直しがきかないこと。
でも、自分なりに精一杯やったんだから、いいんだもん。
それに、わたしは楽しかったもん。

・・・なんて言ってるとまた息子に叱られそうだな。

澤田直子




牧師のつぶやき
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